「SOHO」とは本当に日向の勝ち組なのか?
宮島理のMLマガジン「構造鳥瞰」返信より



●「論壇オタク」とSOHOについての対話

何故若手「論壇オタク」は「国家」という
大きな物語に依ろうとしているのか?
同じSOHOなのだから、もっと足もとをみて語れないのか?
いうという流れを受けて


●「構造鳥瞰」宮島理 1
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 今回は、いただいたメールに対して私が出した返信の中から、ひとつだけ転載することにします。礼儀上、モトとなるメールの内容は転載しませんが、それでも大意はつかんでいただけると思います。
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拝復 メール拝読いたしました。

「SOHOギルド」は以前から拝見しております。
 いわゆる「SOHO」あるいは独立志向については、同年代にもヒシヒシを感じでいます。
もちろん、いつの時代もそうであるように、いざ独立となると躊躇してしまうもので、ほとんどは就職を選びますが、いずれは独立を、と考えている層は多いように思います。

 自由業者が「SOHO」を語る必要性も感じます。ただ、あえて神妙に言いますが、「SOHO」というよりは「日陰者」といった自覚の方が強いです。これは私が「思想というあやふやなモノ」を取り扱おうとしているからなのかもしれませんが、「SOHO」とは詰まるところ日向の勝ち組のモノだと思うのです。つまり、一方には負け組がいて、彼らは意外なことに小さな物語(これを信じるにはてめえ自身の「魅力」が信じられないといけない)ではなく、一足飛びに「国家」という大きな物語に依ろうとしています。私自身は小さな物語に依りながら生きていますが、それで足りないんだ、という声も増えています。冷戦崩壊とは、国家というイデオロギーの崩壊であるとともに、国家というタブーの枷が外れた、ということも意味していると思います(そのことが、裏返った新たな左右対立を生み出しているような気がします)。小林・福田脈も、この辺の負け組のジタバタとして捉え
ています。

 80年代後半から90年代前半を社会で過ごしたか、あるいは学生だったか、で小林・宮台・福田の読み方も変わってきているような気がします。安直な世代論ではありますが、前者が消費なり資本なりのカウンター性・実効性を信じているのに対し、後者はミもフタもなく「素朴実感」だったりします。さらに下の世代に行くと、もっと「ジジむさく・ババむさく」なっているように感じます。

 いわゆる「終わりなき日常」というのも、ある世代以上ではニヒルな感覚を呼び起こしているのでしょうが、ある世代より下では、文化祭はいつまでも続かない、という気分の象徴でもあります。総ヤンキー化と言ってしまうと少々短絡的でしょうか。

 福田和也については、「日本的な代表的知識人として論壇のかなめ石になるのかも」というご意見に基本的に賛成です。彼は保田与重郎に関心を寄せていますが、おっしゃるうに彼自身は小林秀雄的なのでしょう。保田に化ける(堕ちる?)ことはないように思いますが、彼が本気で時代を背負おうと思い始めたら、似たモノには変じるかもしれません。
「ただしく「洗脳」してくれるひとがいるなら教えて欲しい」という声が、主婦あるいは中高年層から噴出しているという事情は私も感じています。「現場」としての小林よしのり、「処方箋」としての宮台真司、「誇り」としての福田和也、「おたく」としての岡田斗司夫あたりが教祖としては比較的目立っているでしょうか。

 しかし、この「目立っている」も所詮は論壇村での出来事ですから、マス的には春山、船井、あるいは「幸福の科学」の影響の方が大きいのでしょう。ただ、言葉で「ただしく洗脳」されたいのであれば、「思想というあやふやなモノ」の中にこそ、文脈なり系譜が用意されていると思うのです。

 そこで話は「論壇オタク」に戻ります。あるいは「思想オタク」と言い換えてもいいですが、それに陥らずに、思想史的系譜をいかに言葉にしていくか、が問題になっています。これはもちろん私の商売上の問題です。重しを徹底的に外して身軽になるのも答えではありますが、一方で重しの根拠を突き詰めてく作業も必要ではないでしょうか。

 歴史の転換期には、復古しながらもそれを決定的に切断しつつ再構成していく作業が求められます。今が本当に転換期であるのかどうかはわかりませんが、微力ながらそれらの作業を売り物として陳列できれば、と思っています。
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「構造鳥瞰」宮島理氏(97年冬)


●「構造鳥瞰」宮島理 2
「文化祭はいつまでも続かない」
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拝復 毎年ルナパークには寄させていただいております。

「文化祭はいつまでも続かない」というのは、それこそヤンキー的に「 まあ、無茶やってられるのも、今だけだし」という感覚でしょうか。そ れがかなり一般化してきていると。ただ、「引退後」は社会で結構まと もに働きますので、いわゆる「シラケ」とは違うような気もします。一 部にはいわゆる「頑張っている若者」もいるにはいるのですが、総体と しては「老成」といった印象です。

ある一定数はいるという「頑張っている若者」ですが、そこら辺の連中 に「レイン
ボウ2000」に行こうよ、と誘われたことはあります。結 局私は行きませんでしたが、彼らは大学中退・卒業後も王子等を拠点に しながら、活動を続けているみたいです。

SOHOの思想的始祖は誰なのでしょうか。80年代的ネットワーク論者 が、インターネットブームに乗って著作を出していることについては、 やっぱりね、という感じですが、影響力はあまりなさそうですし…… SOHOは思想的というよりは社会的な事柄なのでしょうか。作家、評論家 、ミュージシャンといった「古いSOHO」というのは、個人的には「 SOHO」と言い切れないところがあります。逆に、後発の「独立志向」が 「SOHO」と呼ばれているのではないでしょうか。いわゆる「自由業 者」では括れないけれども、「実業家」でもない、といった意味で。

「きたるべきSOHO社会は分裂人格化社会である」「セルフイメージ 開発が曼陀羅的マルチメディア社会の根幹をなす」「SOHOは無政府 主義構造をうみだし、デジタル遊牧民たちが、新中世を形成する」とい った議論があるということは、非常におかしかったです。
同時に、「 SOHO」が既存のハミダシ者として括れないという事実が、各方面に不安 を呼び起こしているということもわかるような気がします。まあ、この ことはかつて文壇や論壇といったゴロツキの互助ネットワークが出来た 時の世間の白い眼と近いものがあるのかもしれません。
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「構造鳥瞰」宮島理氏(97年冬)


■「構造鳥瞰」
http://mag2.tegami.com/mag2/j0010001.htm
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■「構造鳥瞰」発行人プロフィール
宮島 理(みやじま ただし)。フリーライター。1975年生まれ。山形県出身の大阪府育ち。東京理科大学理学部物理学科中退。「芸」としての科学史と戦後思想史の単行本をそれぞれ執筆中。


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